電話(表現の修正と補足をした)
2006年4月20日 心の中一昨日、小学校の時の同級生の男の子から電話がかかってきた。
2ヶ月ほど前にも一度電話があって、今夏に同窓会をするという内容だった。
で。一昨日の電話は、GWに打ち合わせをするから、集まってくれるか?という問いかけだった。
優等生だった女の子もくるから、ということで、だからではないが快くOKと答えた。
さあ。演技をはじめよう。
リーダーで、なおかつ参謀であったあの頃に戻らなくては。
卒業時に作ったトーテムポールの中には未来の自分への手紙と、開封した時に飲むつもりのウィスキーが入っているはず。
当初は二十歳の時に集まるはずが、それをゆうに超えて、自分の子供たちがあのころのわたし達の歳になってしまった。
果たして、何人が、生き残っているのか。
久しぶりに会って、変貌振りについていけるかしら?ではなくて、
何人生き残っているのだろうか、が、私にとっての一番の関心事だ。
既に二人がこの世にいないことはわかっている。
ひとりは、自ら命を絶ち、もうひとりは白血病で。
二人とも十代のうちにいなくなった。
今まで集まれなかったのは、この二人の事があるからだろう。
私が人と関わる時、それも人を好きになるときに、自分からのめりこんでいわば昏倒のような状態になってしまうのは、自殺した彼女が危うい事をわかっていてそれを内面で支えきれなかったことが(彼女がそれを欲したかどうかは別として)自分の中のトラウマになっていて、好きな人は失いたくない、もっと深く取り込まなくては、と無意識的にいつもいつも想ってしまうからだと思っている。
好きな人は、もう失いたくない。生死に関わらず。
だれも私のそばから、消えないで欲しい。
私を認識しない、認識できないようになって欲しくない。
ただそういう考えは、消える(この場合は視界や認識ではなくこの世から消えることを指す)瞬間までにおいてだけ有効で、そう想いつつも頭の中は非常に冷静で冷徹と言っていいほど冷ややかに動いている。
臨月の時、片方の祖母がなくなる際、周りはその場にいる事を避けるように言ったけれど、私は誕生と死は一対だから見るべきであると断固として言い張り、亡くなった事を家で待機している親戚に電話連絡する役までかってでたことや。
それは、責任感とかではなく。
また。
NYに住んでいる昔の彼のお母様がなくなったときに、頬を触りたい、できればくちづけたいと想った事や。
大好きだったもう一人の祖母が亡くなったときに、義母に向かって「ほらきれいな顔でやすんでいるでしょう?」と言ったりしたことや。
熱い自分と、冷たい自分の激しい同居がいつも、自分に付きまとっている。
だから。
私を知っている人のために、私は私を演技しなければいけない。
それは、大人としての行動をするための規制ではなくて、自分を要求されている自分であるべくするための、かつ大衆の中での自分を特異化するための自己完結的行動規制だ。
いま、欲しいのは、そういう感情的な思いを理解してくれる人で、そういう人はなかなか私の目の前には現れてくれない。
両親は、私が大学の専攻を選んだ時、「頭がよすぎると変になるかもしれないけど、あなたは大丈夫」(今考えてみたらすごく失礼な発言)と言って賛成してくれたが、それは大きく間違っていると思う。
たしかに、頭がよいと考えすぎるのかもしれないが、考える素質を持つものは頭の良し悪しに関わらず考えるのだ。
そして私は考えている。
だれか共鳴できる人を探しつつ、考えている。
創ることなくいられる自分を、容認してくれる誰かを探している。
2ヶ月ほど前にも一度電話があって、今夏に同窓会をするという内容だった。
で。一昨日の電話は、GWに打ち合わせをするから、集まってくれるか?という問いかけだった。
優等生だった女の子もくるから、ということで、だからではないが快くOKと答えた。
さあ。演技をはじめよう。
リーダーで、なおかつ参謀であったあの頃に戻らなくては。
卒業時に作ったトーテムポールの中には未来の自分への手紙と、開封した時に飲むつもりのウィスキーが入っているはず。
当初は二十歳の時に集まるはずが、それをゆうに超えて、自分の子供たちがあのころのわたし達の歳になってしまった。
果たして、何人が、生き残っているのか。
久しぶりに会って、変貌振りについていけるかしら?ではなくて、
何人生き残っているのだろうか、が、私にとっての一番の関心事だ。
既に二人がこの世にいないことはわかっている。
ひとりは、自ら命を絶ち、もうひとりは白血病で。
二人とも十代のうちにいなくなった。
今まで集まれなかったのは、この二人の事があるからだろう。
私が人と関わる時、それも人を好きになるときに、自分からのめりこんでいわば昏倒のような状態になってしまうのは、自殺した彼女が危うい事をわかっていてそれを内面で支えきれなかったことが(彼女がそれを欲したかどうかは別として)自分の中のトラウマになっていて、好きな人は失いたくない、もっと深く取り込まなくては、と無意識的にいつもいつも想ってしまうからだと思っている。
好きな人は、もう失いたくない。生死に関わらず。
だれも私のそばから、消えないで欲しい。
私を認識しない、認識できないようになって欲しくない。
ただそういう考えは、消える(この場合は視界や認識ではなくこの世から消えることを指す)瞬間までにおいてだけ有効で、そう想いつつも頭の中は非常に冷静で冷徹と言っていいほど冷ややかに動いている。
臨月の時、片方の祖母がなくなる際、周りはその場にいる事を避けるように言ったけれど、私は誕生と死は一対だから見るべきであると断固として言い張り、亡くなった事を家で待機している親戚に電話連絡する役までかってでたことや。
それは、責任感とかではなく。
また。
NYに住んでいる昔の彼のお母様がなくなったときに、頬を触りたい、できればくちづけたいと想った事や。
大好きだったもう一人の祖母が亡くなったときに、義母に向かって「ほらきれいな顔でやすんでいるでしょう?」と言ったりしたことや。
熱い自分と、冷たい自分の激しい同居がいつも、自分に付きまとっている。
だから。
私を知っている人のために、私は私を演技しなければいけない。
それは、大人としての行動をするための規制ではなくて、自分を要求されている自分であるべくするための、かつ大衆の中での自分を特異化するための自己完結的行動規制だ。
いま、欲しいのは、そういう感情的な思いを理解してくれる人で、そういう人はなかなか私の目の前には現れてくれない。
両親は、私が大学の専攻を選んだ時、「頭がよすぎると変になるかもしれないけど、あなたは大丈夫」(今考えてみたらすごく失礼な発言)と言って賛成してくれたが、それは大きく間違っていると思う。
たしかに、頭がよいと考えすぎるのかもしれないが、考える素質を持つものは頭の良し悪しに関わらず考えるのだ。
そして私は考えている。
だれか共鳴できる人を探しつつ、考えている。
創ることなくいられる自分を、容認してくれる誰かを探している。
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