何度読んでも涙が流れるのです。
ことばで表す事の出来ない私を許してください。
実体のない自分、容赦ない選択、自分では変えがたい現実、不定な先にあるもの、自分の人格の否定、価値、挫折。
そういうものがごちゃごちゃになって、訳がわからなくなるのです。
ずっと戦っている感じがするのです。
何かを得るために自分は頑張る、ではなくて、自分がある(存在する)ために何かを得なくてはという感じなのです。

時々自分がなくなります。
誰かにわたしがいることを教えて欲しくなります。
でも、それはいつも失敗します。
失敗して、自分が居ることが自分自身でわからなくなったのであれば、他の人から見ても居なくても同然、居る価値はないのではないかと思ったりもします。
自分にさようならしたい自分といったらよいでしょうか。

でも、しなければいけないことはたくさんあって、それに追われて、できなくて。出来ないと宣言すれば自分は消される・・・と宣言すらも出来ず、いや、消されたほうがいっそ楽なのに、自分で消えることすら出来ないから。

わたしは何か特別な使命を得てここにやってきた、生まれてきたはずなのです。
なのに、なぜその使命が判らないのでしょう。
使命が果たせないものは消え去るべきなのです。
ここの資源は有限なのですから。

そんな感じです。
支離滅裂ですね。
はかせさんのもってらっしゃるものとは、恐らく違う質のものだと思いますが、きっとどこかでつながっている、だから涙が流れるのではないかと思います。

コメントに書くには長くなってしまったので。

コメント

はかせ
2006年5月2日2:10

こんばんは★はかせです。
コメントありがとうございます。
なるほど、少し息づかいを感じました。

私が感じたことを書いておきます。
私は使命についてはよくわかりません。
私の場合は、社会的なことに直接的に取り組むことを意義あるものとは感じておらず、かなりわがままな考え方をしていることも、その理由の一つです。

確かに我々はただ存在しているだけで資源を絶え間なく浪費し、自己がなければ尊厳を失ってしまうような社会に生きています。
そして、私も時折自分にさようならしたくなったりします。

ある人が言っておられた人間の使命を書いておきます。
「こののっぺりとした世界に、美しい意味を与え続けることが、人間の役割なのだ」
私はこの言葉が真実かどうかはわかりませんが、とても好きです。

私の師匠はこういっていました。
「今ここに全ての気づきがある」と。
これからも、れんげさんはれんげさんに、注意深く今を感じていってください。まだまだ色んな気づきが生まれていくでしょうから。

大丈夫です。
そのれんげさんがそこにいることを私は知っていますよ。
新しい風が吹きますように。

はかせ

れんげ
れんげ
2006年5月2日7:58

おはようございます、はかせさん。
有難うございます。稚拙な話にコメントいただいて。
それに、素敵なことばもいただきました。
ありがとうございます。

そうですね。「世界」の定義は別として、人として「美しい意味」を与えられたと考えられたら、人間は自分の息に意味を与えることが出来ると思えます。
「与える」だけではなく、「与え『続ける』」というところに難しさがあるんでしょうね。

自分を楽にするには、気づきに無関心になることも手段の一つかもしれないとも思っています。だから、使命などといいつつも「無関心であるという使命」という可能性もあるかもしれないとも思っています。

ただ、自分が何者なのかが知りたい。
なぜかまだ、気づきを放棄する段階にはないような気がしています。

ありがとうございます。
はかせさんからわたしが見えるのなら、わたしは存在できています。
わたしからも、はかせさんが見えています。

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