今迄過ごしてきた時間には後悔していないとおもっています。
ただ、全くという訳ではなく、
結婚したことについてだけは、誤ったと思います。

私の父は、いま寝たきりになって、介護型の病院に入院しています。
母の日課はその父を毎日見舞うこと。食事時間を共に過ごすこと。
この先、年老いて私たちもそういう年代になったとき、
申し訳ないけれど、私は夫を介護する気持ちはないし、
逆に介護されたいとは思わない。
むしろ、夫には介護されたくないとおもっています。

一昨年、私の病気が発覚した時、
誰よりも無関心で、主治医からの説明すらダルそうに聞いていたのが、
意識から離れないからです。
二ヶ月の間に二度も手術して、そんな二度目の麻酔から覚めた私に
「今回は楽そうやな」と言った、その言葉がわすれられないからです。
少なくとも、死を身近に感じた人に対する言葉ではない。
そういう、想像力のない人に、人生の最後に触れて欲しくないのです。

コメント

Aimee
2014年9月11日2:19

楽そうって……。
自分が同じ目に遭ったらって、思わないのでしょうか……。

すみません、ひと様のご主人ですが、一読、髪が逆立ちました。憤りで。

れんげ
2014年10月1日23:14

Aimeeさん
憤っていただいて有難うございます。
このときのことを思い出すと、もう2年以上も経ちますが、今でも憎しみがわきます。

いつか、夫が何かの手術をして、麻酔から覚めたときには、
「楽そうやな」
と言ってやるのだと、そんな状態に恵まれるかどうかは別として、
いまから手薬煉を引いています。

Aimee
2014年10月2日2:22

ああ、わたしもいまだに母が年老いて
あれができなくなったら、これができなくなったら
「できないからって叩いたり蹴ったり
マチ針で指を刺さないだけありがたいと思ってよね」
って、言ってやろう、と手薬煉引いてます。

れんげ
2014年10月12日15:48

Aimeeさん、わかります。
そうですよね。
かのノーベル賞受賞科学者先生が、研究の原動力を尋ねられて
「怒り」
とお答えになったのと同じように、
今夫と同じ家で過ごしていられると言う忍耐の原動力は、
母の昔の数々の仕打ちが忘れられなくても彼女を捨てていないという自制心の源は、
「憤り」であるかもしれない、と思っています。

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